伊藤熹朔とは
伊藤 熹朔 (いとう きさく)
略歴 1899年8月1日東京生まれ、1967年3月31日逝去。舞台美術家。 兄・道郎は舞踊家、弟・千田是也は演出家。東京美術学校(東京芸大)西洋画科卒。土方与志模型舞台研究所をふり出しに舞台美術に専念、1924年「ジュリヤス・シーザー」の装置で築地小劇場デビュー。 築地小劇場時代を経て、新劇、新派、歌舞伎、オペラ、舞踊、映画と活躍、晩年には商業演劇、ミュージカル、新帝劇の「風と共に去りぬ」、芸術座で菊田一夫とこんびで舞台「がめつい奴」「がしんたれ」「放浪記」等々多くをてがける。 著書に「舞台装置の研究」「伊藤熹朔舞台美術」などがある。 文部大臣賞、芸術院賞、毎日演劇賞、映画美術各賞受賞。 |
伊藤 熹朔 (いとう きさく)年譜
明治32年(1899年) |
8月1日、伊藤為吉、喜実栄の五男として、東京神田三崎町に生まれる。父の伊藤為吉(1864~1943)は工部大学校で機械学を学んだ後、アメリカに渡り建築家を志す。帰国後は、木造家屋の耐震・耐風化についての改良考案や、各種の建築用具の発明、職工徒弟の教育等各種の事業に力を注いだ。 この報いられることの少なかった特異な建築家の七男二女のうち、長女嘉子は古荘幹郎大将夫人、次女暢子は中川一政画伯夫人、次男道郎は舞踊家、三男鉄衛は建築家、四男祐司は音楽家兼舞台衣裳デザイナー、六男圀男は芸名千田是也であり、俳優、演出家として、五男熹朔を加えた芸術家一家をなすことになる。 (注1:誤字訂正 中川一枚=誤り 正=中川一政 2004-4-16) (注2:誤字訂正 古荘鉄郎=誤り 正=古荘幹郎 ふるしょう もとお 2004-4-20) |
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大正7年(1918年) |
東京美術学校西洋画科入学、岡田三郎助に師事。在学中より土方輿志模型舞台研究所同人となる。 この時、岩村和雄、水谷仲音がいた。 また二世市川左団次、初世市川猿之助らの「小寿々女座」の舞台装置の手伝いをする。 |
大正12年(1923) |
東京美術学校卒業。 なお、関東大震災の翌年、大正13年6月には、小山内薫、土方輿志らによって築地小劇場が開場される。 |
大正14年(1925) |
築地小劇場第19回公演シェークスピア原作「ジュリヤス・シイザア」の舞台美術を担当。これが舞台美術として最初の仕事で、その単純化された舞台装置は、象徴的ですらあると評された。 以後築地小劇場で「役の行者」「大寺学校」など多くの作品を担当し、溝口三郎、吉田健吉らと舞台美術家として黎明期の新劇に貢献した。 |
昭和4年(1929) |
築地小劇場分裂後、劇団築地小劇場に参加する。 また、他の新劇団「心座」「芽生座」などの仕事も担当する。 |
昭和5年(1930) |
舞台美術の研究のため渡米。その成果は、築地座の川口一郎作「廿六番館」などに示され、また久保田万太郎作「釣堀にて」では、その照明とあいまって高い評価を受けた。 創作座では、真船豊作「狐舎」、「銘」などの作品を残し、美術座では、トルストイ原作「復活」、ギャンチョン原作「マヤ」など舞台美術家として注目された。 後に、前進座、創作座さらに文学座などの演劇の分野のみならずの演劇の金曜会などのオペラ作品の舞台装置を担当することになる。 |
昭和8年(1933) |
熹朔を中心とした舞台美術研究グループ「六人会」を結成。 松山崇、伊藤寿一、島公靖、宇佐美一、橋本欣三、北川勇がそのメンバーであった。 |
昭和9年(1934) |
新協劇壇第一公演、島崎藤村原作、村山知義脚色。久保栄演出「夜明け前」を担当。 徹底した写実的舞台装置の傑作として、記念碑的作品となる。 この劇団では、写実的な舞台装置の作品を多く残しているが、長田秀雄作、伊藤道郎演出、「大仏開眼」では、単純化した写実手法で、劇場機構上の制約を見事に脱し、大きな背景を暗示する舞台の創出に成功している。 |
昭和16年(1941) |
「舞台装置の研究」〈小山書房〉出版。戦時下であるにもかかわらず、この美しい本は、日本で最初の舞台美術の体系的な記述として、戦後にも再版されているが、近代舞台装置デザイナーの確立者の証言として貴重である。 既に、この時期に新作歌舞伎、オペラ、舞踊に至るあらゆる分野の舞台美術を手がけていた熹朔の幅広い視野と、そのたゆみない活動が記されている。 また、戦時下を通じて移動演劇の活動に力をそそいだことが、「移動演劇十講」に残されている。 |
昭和21年(1946) |
久保田万太郎脚色「銀座復興」、新劇合同「桜の園」「真夏の夜の夢」などの舞台を担当。これらの作品で、舞台美術家として初めて文部大臣賞を受賞。 これらの作品は戦後の演劇の復興を人々の心に刻んだ作品であった。 青山杉作、千田是也等と.俳優座を起す。 また同時代の劇作家の久保田万太郎 川口松大郎、北條秀司、真船豊などの作品で、その装置を担当し、後には菊田一夫や三島由紀夫など幅ひろく様々な作家の作品を担当する。 |
昭和25年(1950) |
木下順二作「タ鶴」を担当。 この佳品は現在も上演され続けられている名舞台とされる。 戦前の写実中心の様式から、強い個性を持った反写実様式に転じ始める。反写実様式により舞台上の作品の内容を深める手法である。 芸術院賞、毎日演劇貧を受賞。 |
昭和29年(1954) |
俳優座劇揚開場、同劇場社長に就任。第1回公演アリストパネス原作「女の平和」を祖当。 この頃より伊藤熹朔舞台美術研究所を主宰し、後進指導に当る。 門下生に島公靖、伊藤寿一、北川勇、織田音也、中嶋八郎、古賀宏一、小川雍夫、品川洋一などの現在第一線で活躍する多くの舞台美術家がいる。 |
昭和30年(1955) |
「舞台装置の三十年」(筑波書房)出版。 「私の今の念願は、舞台美術の基本的なものを確立したいということである。 これがあって始めて、それにあきたりない人達がいろいろの新しい運動を起すのだと思う。 私はそういう人達の出現を、心から待っているのである。 私は流行をつくろうとも、流行をおっかけようとも思っていない。 一つの真実をつかみたいのである。」(同書「アカデミックの樹立」より) |
昭和33年(1958) |
日本舞台美術家協会(後の日本舞台テレビ美術家協会)を設立し会長をつとめる。 |
昭和37年(1962) |
映画の美術監督としても活躍し、「雨月物語」(大映)、「雪國」(東宝)、「楢山節考」(松竹)、「黒船」(20世紀FOX)などの傑作をもって、映画界に新風を送った。 菊池寛賞受賞。 |
昭和38年(1963) |
「舞台美術」(朝日新聞社)出版。 「亡くなった日より三年と数ヶ月前に出版された本だが、これが残されたということは、私たちにとって何よりも幸せなことであった。 この横長の大きな本の百八十頁分ぎっしりと収められた図稿や写真を見てゆくならば、それらは実に多様な様式を示しているのである。 写実と反写実、複雑と単組 まことにすべての模範がそこにはある。」 (伊藤熹朔舞台美術遺作展目録「伊藤熹朔の業績」杉山誠より) |
昭和39年(1964) |
芸術院会員となる。 |
昭和42年(1967) |
3月31日、東京都杉並区永福町の自宅にて肺ガンのため没。享年67歳。 最後の作品は、同年2月俳優座公演「千鳥」(国立劇場大劇場)で、最後まで取り組んでいた仕事は、同年6月公演予定「風と共に去りぬ 第二部」(帝国劇場)の装置プランであった。 4月2日、「演劇関係諸団体による演劇葬」が、東京・青山葬儀所で行なわれた。 生涯に約四千点の作品を残し、わが国の舞台美術を今日の芸術にまで高め、舞台美術家という新しい芸術家の地位を確立した先駆者、開拓者の一生であったといえる。 |